HIV感染によって亡くなった人たち その4

HIV(エイズ)で死亡した人物 その4

ロイ・コーン
アメリカの検察官で、マッカーシズムの時代には赤狩りの急先鋒でした。検察官ののちにマッカーシー失脚後に弁護士になりますが、不動産王として有名なドナルド・トランプやマフィアのボスのジョン・ゴッティという富裕層の有名人を顧客に持つことで、ロイ・コーンの名前は、さらに悪名をとどろかせることになりました。隠れ同性愛者でしたが、コーンは表向きはゲイであることを否定して、同性愛者の権利拡張に反対していました。そして「同性愛者は教職に就くべきでない」と語ったことさえあります。証人や被告人に対しても、「同性愛者であることを暴露されたくなければ法廷で検察に有利な証言をせよ」といった圧力を行使することもありました。1986年にエイズの合併症で59歳で亡くなりましたが、コーン本人は肝臓癌だと死ぬまで言い張っていました。ロイ・コーンのドラマテイックな人生は、1992年のテレビ映画『市民コーン(Citizen Cohn)』(ジェームズ・ウッズがロイ・コーンを演じた)や、トニー・クシュナー作の舞台『エンジェルス・イン・アメリカ』(ピューリッツアー賞受賞)などで取り上げられています。2003年にテレビ映画化された『エンジェルス・イン・アメリカ』(アル・パチーノが演じた)は、第56回エミー賞のミニシリーズ・テレビ映画部門で作品賞など11部門、第61回ゴールデングローブ賞のミニシリーズ・テレビ映画作品賞など5部門を受賞しています。
演劇が好きすぎてヤバイ人へ
マイケル・ジェッター
アメリカ出身の個性的な脇役の俳優です。1990年に出演した『Grand Hotel』でトニー賞を受賞、1992年にはテレビシリーズ『Evening Shade』でエミー賞を受賞しています。ウーピー・ゴールドバーグ主演の大ヒットコメディの続編『天使にラブ・ソングを2』の教師役や『グリーン・マイル』での死刑囚ドラクロア、『フィッシャー・キング』でのキャバレー・シンガー役などで印象を残しています。同性愛者で、エイズを患っていましたが、死因はてんかん性の発作によるものであったと言われています。2003年に50歳で亡くなりました。
ジョブライアス
アメリカのグラムロックシンガーで、ロック界としては初めて自身がゲイであることをオープンにしていました。最初の大衆的なポップスターで、エレクトラレコードとは50万ドルともいわれるビッグな契約を交わしました。タイムズ・スクエアへの看板広告など大々的なキャンペーンでアメリカ人グラムシンガーとして売り出されました。1983年に37歳で亡くなりました。
スコット・ロス
アメリカ生まれのチェンバロ・オルガン奏者です。弟子には、曽根麻矢子、ニコラウ・デ・フィゲイレドがいます。フランス・カナダを中心に活躍しました。1989年エイズ関連疾患のため、38歳で亡くなりました。
ハーブ・リッツ
アメリカカリフォルニア生まれの写真家です。友人のリチャード・ギアを撮影したことをきっかけに写真家になりました。1980年代からマドンナと自宅が近い事からツアー同行などして、専属カメラマン状態になりました。マドンナのアルバム「トゥルー・ブルー」のジャケット写真、「チェリッシュ」のプロモーションビデオなどが特に有名です。主に活躍したのは『ヴォーグ』などのファッションページで活躍しました。マドンナやジャック・ニコルソンらのポートレイトが有名ですが、他にも男性ヌードなども撮影しています。2002年に50歳で亡くなりました。
憧れのブロードウェイ
ブラッド・デイヴィス
アメリカ人の俳優で、代表作は1978年の映画『ミッドナイト・エクスプレス』です。主人公のビリー・ヘイズを演じ、ゴールデングローブ賞新人賞を受賞し、英国アカデミー賞にもノミネートされました。1985年にエイズと診断されましたが、1991年9月8日にロサンゼルスで41歳で亡くなることになる直前までそのことを伏せていました。 エイズが原因で死去したと発表されたましたが、実際は意図的なオーバードース(過剰に薬を摂取)によるものでした。病院で激しい苦しみの中で、死に直面していた彼は、自宅に戻って自分自身が望む形で命を終わらせることを選択して、妻と家族ぐるみの友人ひとりの付き添いのもとに幇助自殺をしました。デイヴィスは『AIDSで他界した最初の異性愛者の俳優』とも言われています。 デイヴィスの未亡人は本の中で否定していますが、デイヴィスはバイセクシャルであったとも伝えられています。
オンドレイ・ネプラ
チェコスロバキア出身の男性フィギュアスケート選手です。1972年札幌オリンピック男子シングル金メダリストで、1971年、1972年、1973年世界フィギュアスケート選手権優勝しています。同性愛者でした。1989年にエイズによる合併症のため38歳で亡くなりました。1993年よりスロバキアでオンドレイネペラメモリアルという名称で、フィギュアスケートの国際大会が開催されています。
古橋悌二
京都市立芸術大学の学生を中心に結成されて、様々なジャンルのアーティスト達とダムタイプを結成しました。現在でも京都を拠点にしながら、海外公演を中心に活動中。マルチメディア・アート・パフォーマンスグループと呼ばれています。古橋悌二ソロで行った「LOVERS」は文化庁メディア芸術祭で38位になり、彼の遺作にもなりました。1995年に35歳でエイズの敗血症のために亡くなりました。
ロン・リチャードソン
アメリカ出身で、主にブロードウェイで活躍した俳優です。1985年、ブロードウェー・ミュージカル『ビッグ・リバー』でジム役を演じました。『ビッグ・リバー』はアメリカの演劇界において最も権威ある賞であるトニー賞の最優秀ミュージカル作品賞等を受賞しました。日本にも来日しています。1989年と1993年には、さだまさしのコンサート『夏 長崎から さだまさし』にも出演していますが、長崎から広島に向かって平和について歌うという趣旨に賛同して、ボランティアとしての出演といいます。1995年にエイズのため43歳で亡くなりました。
ライアン・ホワイト
血友病患者として、血液製剤の輸血治療を受けていました。13歳の時に汚染血液製剤からエイズに感染しました。1984年の診断時には「余命6ヶ月」と告げられましたが、その後5年間生き延びました。そして、ホワイトはエイズ感染のために、学校から追放され、そのごエイズに関する広報活動を行い、ポスターに出ていました。当時はエイズは、ほとんど理解されていないびょうきだったので、ホワイトは転居を移し、学業を続けることが出来ました。そしてホワイトは多くのメディアに登場して、エイズに関する広報活動の分野で多大な貢献をしました。エイズ教育のための講演会に出たり、テレビ番組に出演しました。そこで、親しい友人となったのは、音楽家のエルトン・ジョンとマイケル・ジャクソン、テレビ番組司会者のフィル・ドナヒューでした。ホワイトはエイズの診断を受けて5年後の、1990年に18歳と4ヶ月で亡くなりました。彼の臨終にも立ち会ったエルトン・ジョンが葬儀の司会を務め、当時の大統領夫人であったバーバラ・ブッシュや、生前の親しい友人たちが多数参列しました。ホワイトの死後、「ライアン・ホワイト・ケア・アクト」が施行される運びになりました。そして友人のエルトン・ジョンはホワイトの追悼曲として「ザ・ラスト・ソング」を作曲し、「エルトン・ジョン・エイズ財団」を設立しました。 マイケル・ジャクソンは「ゴーン・トゥー・スーン」(アルバム『デンジャラス』収録曲、「あまりにも早く去った」の意味)を発表して、1992年に出版した自著『ダンシング・ザ・ドリーム』(Dancing the Dream)にも「ライアン・ホワイト」という題の詩を書き残しています。